ひょんなことからアフリカへ

ひょんなことからアフリカへ行くことになった男がアフリカから日本に帰ってくるまでの日々を描いた日記。

「ひょんなこと」はいつでも起きている。

 ふと最近、アフリカでの出来事を思い出すことがある。

 今のぼくの近況は、「受験生を教える受験生」だ。

 アフリカから戻って以来、塾での指導や事務に明け暮れている。明け暮れすぎて、ここ最近は結構疲れている。それもそう、ぼくのいる塾は、中学受験生が多い。そのため、今の時期(1月中旬)は冬期講習も終わって、最後の詰めの時期なのだ。だから、多忙になる。人によってはおためし受験というかたちで県外の学校などへの受験をすることもあり、刻々と本番が近づいていることをみなが徐々に感じる、そんな時期なのである。それに、ぼくにはもう程遠い話になってしまったが、大学生にとってはちょうどテストの時期でもある。それもあって、この時期は色々なものが重なってくるのである。本当に、大学のテストを受けていたのが4年前ともなると、忘れるものだ。ぼくはもう大学生ではないので、テストもなければ通学もない。ただ、時間はある。だから、塾には過去にないくらい、コミットしている。

 まあそれはさておき、ぼくは受験生を教えるかたわら、「受験生」でもある。それはつまり、学校への採用を狙っている、という意味で。ぼくも、来年度の4月から、どこかで教員として働く。そう考えると、いよいよ、また別のステージに行くわけだ。期待感が増す。と同時に、もう中学受験生を、支える側としてフルコミットすることは、おそらくもうないのだなと思う。不思議な感覚になる。なんだかんだ、2013年から2020年までの計8回、中学受験を経験してきた。さみしくなるのか、重荷が取れたようにすっきりするのか、やっぱりやりたいとなるのか、どうなるのかわからない。おそらく身体の一部みたいなものなので、それがなくなった時のぼくの感情は、その事態をどう受け止めるのか、わからない。ただひとつ言えることは、人間は順応するということ。いや、順応せざるを得ないということ。きっと、来年の2月も、同じようになにかを抱えようとしているかもしれないが、その時は、その時である。

 さて、今年、、、じゃなかった。もう去年のことだ。去年の5月中旬、ぼくとぼくの友人はモザンビークという国にいた。アフリカの、南東部に位置する縦長な国。日本よりもずっとでかく、それなもんだから、インフラ整備が全然追いついていなくて、150㎞移動するのに大型トレーラーで10時間以上かかってしまうような、でこぼこの赤土ロードばかり。最近は、中国とか日本とかいろんな国が投資先として少しずつ注目し始めているらしく、アジア系の顔立ちの労働者も時折見かけたが、その一方で、国境にいる警察も平気でビザ代50ドルのところを100ドルと言ってくるような、ほかの旅行者に聞いても「あそこの警察はDirtyだ」と言われてしまうような、そんな国だ。

 そんなモザンビークで、ぼくは、アフリカ旅行のなかでも印象的な出会いを果たす。それが、オーストラリア人バックパッカーのSam、そしてフランス人カップルのMaudとGuillameだ。この3人とは、モザンビークバックパッカー宿で出会った。Samはたしか、エンジニアだった。世界1周を”2周目”だったか。背が高く、飄々としていて、ぼくの友人のように、旅慣れている雰囲気があちこちから醸し出されていた。大きなバックパックをガムテープとかで補強しながら使っていて、「これも2代目だよ」みたいなことを言っていたのを覚えている。Facebookをちらと見ると、今も旅行中のようだ。そしてフランス人カップルのMaudとGuillame。彼らもアフリカを何か月も旅行中だったらしく、たしかあと2、3週間くらいでフランスに帰るという旅程だった。大きなバックパックを抱え、一緒にミニバスに乗ったのも覚えている。

 アフリカ旅行における思い出の中でもいろいろな種類のものがある。「出会った人」の思い出の中で特に大きいのが、モザンビークでの出会いだ。数日間、なぜか旅程を共にして、そして、パッと別れる。そんなわずかなものなのに、暖かく、懐かしく、その縁は切れていないように思える。いま、ぼくがやることに明け暮れて、疲れ切っていることも拍車をかけているだろう。どこかに行ってしまいたい、という願望もある。すると、必ずアフリカ旅行を思い出す。そして、彼らを思い出す。ほかにもたくさん思い出すが、やはり、人間との出来事を思い出す。また再びどこかで会えないかと、ふと考えてしまうのである。

 ときに、「ひょんなこと」が人生を大きく揺るがし、その後の人生をガラリと変えてしまうことがある。誰と出会うかで、その後の自分の人生が、自分自身が、変わっていく。きっと『クラウドアトラス』をまた見ちゃったのもあるだろう。ぼくは影響されやすい。でも、やっぱり、ここ数ヶ月、色々な考えを経て、そして、自分の人生がまた新たなフェーズにいよいよ移行する、と考えたときに、想いが溢れてしまった。

 自分がどうなるのか、楽しみとか、不安とか、いろいろなものがある。将来を考えたりもする。また、旅に出たいと思ったりもする。考えても考えても、想いは尽きない。

 以下の写真は、フランス人カップルのMaudが、先々月、突然送ってきてくれたものだ。これがとってもよい写真で、思わず記事を書きはじめたのだが、下書きのまま2か月ほど放置してしまっていて、ようやく今日再開して書き上げた、という感じ。

 受験が終わったら、いっぱい映画見て、本読んで、出かけて、なんか見に行ったり聞きに行ったりして、インプットをしまくって、傍らで旅行にも行って、たくさん楽しもう。

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アフリカ79日の行程を終えて~そして再びアフリカの世界へ

日本に帰国したのは7月12日の昼すぎ。

普段ならすこし遠いと思う成田も、この日だけはとても近く、そして親しみを感じる場所だった。日本に住んでいたはずなのに、どこか日本すら外国のように感じたのは、きっとアフリカに多少の思い入れがあったからだろう。

 

帰ってからというもの、人に多少会った。そして、定食なども食べた。日本に着いてから、はや1ヶ月ほど経つ。しかし、あらためて日本のめしはうまいと感じる。どこのなにをとってもうまい。そして、だしの文化がある。うまみがある。アフリカにうまみの概念はない。これはもしかしたら他の地域でもそうかもしれない。後味とか、風味とか、なんなら余韻とか、そういうところに日本の食べもののおいしさはあるのかもしれないし、ぼくはそれをおいしいと思う。

とにかく、成田に着いた直後は全てが真新しく感じた。

「日本語の看板だ!」「バスだ!」「日本語だ!」「道路だ!」「並んでいる!」みたいな。とにかく、すべてが新しく、興奮状態だった。スーツケースをバスに運び入れるスタッフのにいちゃんを見て、「これはアフリカならお願いしてもいないのに勝手に入れられて、そのあと絶対金取られるやつだな」とか思ったりして、すこしおもしろかった。

成田から東京駅までのシャトルバスを使って、ぼくと友人は最後の共同移動をした。ぼくは東京で降り、友人はその先の銀座まで。ぼくは一足早く、東京の地を踏むことになった。降りたときには、雨が降っていた。日本はまだ梅雨明けをしていなかったみたいで、ぼくの「アフリカから帰ってくる頃にはカンカン照りだろう」という読みはみごとに外れた。一緒に乗ってきた外国人観光客もいそいそとレインバッグの準備をしている。横には、スーツケースを持った祖母母娘の3人組が。ぼくは少し東京の街並みをぐるりと見まわし、あらためて日本に帰ってきた感覚を味わいながら―映画「ゼロ・グラビティ」のラストで、主人公のサンドラ・ブロックが重力に負けて少し笑うように。ちなみに、ぼくは日本帰国前の最後に見た映画が「ゼロ・グラビティ」だった―、スーツケースの3人組が東京地下街行きの階段に向かうのを見て、自分もと思い、そちらに向かった。すると、祖母がスーツケースを持って階段を降りることに難儀していたので、半ば反射的に手を貸すことが出来た。

自分でもあまりわからなかったが、なぜか出来てしまった。普段はあまりしないのだが。どうやら、鳥取から来たらしい。「ぼくも青春きっぷを使って一度鳥取砂丘まで行きましたよ。お気をつけて」とスマートにカッコつけながら、「じゃ、これで」と言ってぼくは東京地下街の迷路みたいなアーケードに颯爽と消えていった。そしてそのあと、結構迷った。結局、地上に出た。

 

そんなことももう1ヶ月以上も前の話だ。

アフリカでも、時が過ぎるのははやかったが、日本に着いてからはもっとはやく感じている。

現に、この記事を更新しようと思って駅前のスターバックスに行って途中まで書いて、残りはあとでやろうと思ったら、3週間も経っていたのだから。

今はお盆休みに行った台湾からも帰り、すっかり9月にさしかかってしまった。

ここ最近の天候を思うと、真夏も通り過ぎたのかもしれない。

秋に向かっている感じがする。

 

 

明日、再びアフリカの世界に足を踏み込む。

といっても、横浜で。

TICAD7(アフリカ開発会議)が現在開催されており、それの公式サイドイベントにお手伝いとして行ってくるのだ。

不思議な縁である。ぼくのアフリカジャーニーの支援をしてくれたインターメディアジャパンが、誘ってくれた。とてもありがたい。

 

また後日、いろいろとぼくの近況も含め、記事を更新しようと思います。

 

そろそろ、アフリカからはいちど一歩ひいたかたちでの生活になると思います。

幻のアフリカ78日目~なぜかタイに着く編〜

アフリカからぼくの足が離れて9時間ほどが経った。ぼくは無事に、そして、なぜか、タイに着く。道中、ずっと映画と音楽を聞いていた。いいなあと思うものもあったので、記事の見栄えのためにも載せておこうと思う。

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もうこの時点でアフリカっぽさが全くなく、というかアフリカにすらいなかった時間帯なので、もはやアフリカの話をすることはできないのだが、一応、一連の流れということにしておこう。

 

そして、タイのスワンナプーム空港に到着!

ぼくの気持ちをあらわすとしたら、こんな感じだ。
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ぼくは戸惑った。なぜここにいるのか。アフリカ行った感満載のエチオピアTシャツ(表にはアビー首相)を着て、そう思っていた。ちなみにこのTシャツ、エチオピアでもウケた。空港では「いいじゃん、どこで買ったんだよ?」とよく言われた。空港です。

 

結局タイのスワンナプーム空港では10時間近く待った。そして、7月11日の23時にぼくらはようやく、日本は成田にむけて最後の飛行機を迎えることになる。実は、エチオピアから一緒に来ていたマリ人、アメリカ人、フィリピン人、日系ブラジル人(?)、ウガンダ人、ケニア人といった即席アベンジャーズの一部がいなくなっていた。残念。タイで散ったらしい。

いやあ、ここまできて、ようやく日本に帰れそうである。

正直、タイの空港に着いてなかを歩いていたとき、通りすがりに日本語が聞こえてくるのを感じて、「よりきついことをすれば、今まできついと感じていたものもきついと感じなくなる」という相対的評価の考え方に納得してしまった。アフリカに2ヶ月半いたあと、タイはたぶん余裕である。

 

実は再来週の月曜日から台湾に行く。

きっと、楽勝である。

 

さて、ぼくは7月8日(月)の13時から日本帰国に向けてアフリカはタンザニアを出発した。

そして、無事帰国するのが7月12日(金)の昼12時過ぎ。

なんと、日本帰国にまる4日ぶん費やしたことになる。リアル「96時間」である。

しかも、7月8日〜12日までの5日間、毎日いる国が変わっていた。

8日:タンザニアケニア

9日:ケニアエチオピア

10日:エチオピア

11日:エチオピア~タイ

12日:日本

という感じである。たぶん、大臣超えはしただろう。

5日で5か国。今後の人生でもきっとないだろう。いや、頑張ればなんとかなるかも。あまり頑張りたくはない。

 

タイの市内に出れば、きっとブログの記事的にも映えていい感じになっただろうが、お金もないし結構疲れていたので、空港内で過ごしていた。

そして、飛行機登場時刻の23時頃に迫り、搭乗ゲート前に行ったときの日本人の多さ。どこを見ても日本人がいたときの、あの何とも言えない感じはきっとしばらく体験しないだろう。再び日本を数ヶ月離れることをしなければ。

列が長かったのでベンチに座っていたら、エチオピアから一緒だった日本人の女性2人組とすれちがった。別に話をしていたわけではなかったのだが、すれ違いざまにひとこと「おつかれさまでした」と言ってくれた。「おつかれさまでした」とことばを返したときのあの感じも、今後なかなか経験できないだろう。まずは、帰りの飛行機が離陸直前にキャンセルにならなければいけないのだから。


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最後、ほとんど人の乗っていない、空港にあるあの平べったいバスの座席に友人と一緒に座って飛行機までの最後の移動。

進行方向とは後ろの向きで座って、バスが空港内を移動する風景を大きな窓から見ていたのだが、景色が後ろからあらわれて、ぼくの見ている方向へ集まっていくさまはなんだか美しく、はかなくもあった。進行方向を背に移動していると、その時に見る景色はもう移動した「あと」のものであり、つまり「過去のもの」ということになる。これから行くところを見ているのではなくて、すでに通り過ぎたところを見ているという状態である。この写真はタイの空港だが、この景色を動くバス車内で見ていたぼくは、どこかこれまでのアフリカ2か月半の道のりを思い出し、映し出していたかもしれない。

だからノスタルジーな気持ちになって、はかなさを感じたのかもしれない。

あと、後ろ向きに景色が動いていくさまはやはり新鮮で、見ていて楽しい。

人間は前に進む生き物だ。生物として、後ろ向きで進むというメカニズムはあるにはあるが普段は使わない。でも、交通機関の発達はぼくらが後ろ向きで前に進むという行動は可能になった。だから、後ろ向きで進むという行動にはどこか本能的な恐怖がありつつも、やると結構楽しいことがわかった。

 

そんな発見もしながら、ぼくらはタイ航空のANAとのコードシェア便に乗りこみ、タイもあとにする。タイは今度ちゃんと行きたいな。タイだけに。

幻のアフリカ77日目(8時~23時)~エチオピアから出られない編~

ベッドにダイブした直後、ぼくの意識だけは日本に行ったものの、身体はエチオピアにあった。

起きたのは朝8時過ぎ。2時間ちょっとしか寝られなかったのだが、さすがちゃんとしたベッド、それくらいの睡眠時間でも、身体は結構休まっていたように思えた。昨日(というかほぼ、さっきのことだが)言われた朝食も、せっかくなので食べようと思い、友人とともに1階のレストランへ。実際、かなりお腹はすいていた。

朝食はバイキングで、マジで好きなものだけを食べた。ポテトと、オムレツを頼み、そして地味に2か月半ぶりに見たパンケーキを8枚食べた。シロップを死ぬほどかけ、朝から血糖値を爆上げしたのを覚えている。

10時には空港行きのシャトルバスが出るということだったので、ぼくらと同じ観光客がぞろぞろと出てきた。朝食バイキングで再びアベンジャーズが集結したりもした。

時間は9時50分。すでにバスは着いたらしいので、まあ、いろいろあったが、これでエチオピアからも脱出だ、もういいです、と思いながらシャトルバスに乗った。すると、また新たにケニア人ビジネスマン(日本語を話せる)がアベンジャーズに加わった。時々、あいづちで「まあね」とか言われるのは地味に笑ってしまう。

さて、10時過ぎにぼくらは空港に着いた。もう荷物検査も慣れたもんである。そしてチェックインのカウンター前に、昨晩の飛行機に乗っていた人々がぞくぞくと集結した。で、おそらく全員集まったところで、なんだかへんな状態になった。

なにも起きないのである。あれ、なんかこういうときって、チケットとかそういうのが渡されたりして次のイベントにうつるもんではないの?と思ったが、なにか起きる気配がない。ただ、アベンジャーズとも一緒なので話し相手には困らないため、そこまでストレスはたまっていなかった。むしろ、「こんなこともあるよな、アフリカだしハハハ」くらいの状態だった。ちなみに、ここで神奈川の座間にバーを持つウガンダ人おばちゃんもアベンジャーズに加わった。ちなみに彼女とはまだつながっている。

 

しばらく待っていて、ようやく気付いた。

ここでぼくらは、大前提から疑わなければならなくなった。

飛行機はいつ飛ぶのだろうか?

 

昨晩、ホテルのバウチャーをもらう際に、その紙に「10:00 12:00」と書かれていたのだ。これを鵜呑みにしていたぼくは、てっきり飛行機は昼12時ごろには飛ぶものなのだとばかり考えていた。だって、シャトルバスも10時にホテルを出て10時過ぎには空港に着いているのである。そりゃあ、多くの人は昼出発だと認識するだろう。ぼくもそうだった。ただ、ぼくはその部分から疑わないといけなくなってしまったのである。

そして、ずーっと待った。幸いにも、アベンジャーズがいてくれたので話が尽きず、待つことに苦労は感じなかった。そして、空港に着いてから3時間近く経ったころ、にわかにまわりがざわざわしはじめた。どうやらなにか動きがあったようである。近づいてみると、どうやら航空券の控え等が配られているらしい。おお、これで次イベントにいけるぞ、と思ったぼくらはそのざわざわに入った。そして、エチオピアにぼくの名前が響いた。

「コノ!コノ!」(ぼくの名字はコウノなので)と呼ばれたのでぼくは挙手して「はい」と答えた。すると、A4サイズの紙3枚をホッチキスで留めたものが渡された。そこには、なぜかまたホテルのバウチャーと、そしてぼくの航空券控えと思われる紙があった。なんと、、、飛行機の出発は今日の23時過ぎだった。そう、ぼくは再びアディスアベバに帰ることになったのだ。

しかも、航空券控えをよく見てみると、、、

「ADD-BKK」「BKK-NRT」と書いてあるではないか。

ん?と思った。ADDはアディスアベバ、つまりこの地である。NRTは成田、日本だ。本来ならADD-NRTになるはずである。だが、、、なんだこの「BKK」は?

そう、バンコクである。タイの。なんと、代替便は直通便からバンコク経由へと変更になったのである。むむむ、ひょんなことからバンコクへ、である。

こうしてぼくは明日、バンコクへ飛ぶことになった。さすがに疲れているので、もう入国することはせず、空港で寝ていようと思った。

 

そんなことを考えているうちに、空港にいても仕方ないのでシャトルバスに乗って再びもらったホテルに行こうという感じになった。そして13時過ぎ。ぼくらは再びアディスアベバ市内に戻ったのである。

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これはアディスアベバ市内である。

これを「見飽きた」と感じられるのは、一種のぜいたくだったのかもしれない。


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なぜ、ぼくはアディスアベバからバンコクに行くのだろうか。しばらく考えてみたが、「そうなったから」以外の理由が思いつかなかった。


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2度目のホテルにあった受付の時計。なぜかヤクーツク

ロシアの都市で、サハ共和国というロシア連邦内国家の首都らしい。ちなみにサハ共和国は面積の40パーセントが北極圏内にあり、くそ寒い。しかもめちゃめちゃでかく、ネットによればインドに次ぐデカさらしい。しかも、オイミャコン村という、1926年に氷点下71.2度の文字通り草も生えない世界最低気温をたたき出した村をもつスーパーくそ寒都市である。

そこの時間が、なぜアディスアベバにあるのだろうか。ここからはぼくの想像だが、世界の時計を4つ用意しようということになって1つ枠があまり、なにか突飛な場所を選ぼうということになっていろいろ調べたところ「ヤクーツク」という極寒都市を見つけて「うひょーここすごいじゃん!(笑)」となったエチオピア人が採用したのではないだろうか。あと、貼り付けたラゴスも気になる。なぜラゴスに変えたのだろうか。


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ホテルを出ると、道に出た。

なにもない。


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犬も寝ている。特になにもない。

 

 

そんな感じで、昼食はホテルのバイキングでとり、その後、上の写真のように少し散歩して、17時頃に再びホテルの部屋に戻った。そこでぼくは仮眠をとった。2時間ほどして起き、シャワーを浴びた。そしてなんと、2ヶ月半ぶりにドライヤーを発見。喜び勇んで伸びに伸びた髪を乾かしたのであった。ちょっと楽しいと思えたドライヤーは、たぶん人生で初めてだった。そしてリアルタイムでなぜかロボコップ3を見ることが出来た。テレビでやっていたのだ。そのあと、夜ご飯のバイキングを食べ、時間も更けて21時頃。ぼくらは何度目かわからないシャトルバスに乗り込むことになった。

そして空港に到着。

そこでチェックインをすることになったが、とんでもない行列。

正直疲れていたので、近くにいたスタッフのにいちゃんに事情を説明してプレミアム列の方に行かせてもらえないか聞いてみたところ、行けた。理由が「疲れた」でも、案外いけるものである。

そしてチェックイン。ようやく飛行機に近づいてきた。

そして諸々の手続きを済ませ、22時過ぎ。ようやくエチオピア、ひいてはアフリカから出ることができそうだ。もう疲れた。

 

なぜかこれからタイのバンコクにむけて飛ぶことになった。

23時までもう少し。しかし、ぼくはもはやカオスの状況に慣れつつあった。

「ああ、最後の最後にすっごいアフリカらしい感じを体験したな」と思いつつ、アベンジャーズとともに飛行機に乗り込み、ぼくらはついにアフリカの地をあとにすることになる。

幻のアフリカ77日目(深夜0時~早朝6時)~エチオピアから出られない編~

日本に帰ってきてから3週間ほど経った。定食や串カツ、魚介類などを食べに食べてやっぱり「日本のめしは全部うまい」と再認識している真っただ中だったのも過ぎ去り、今は塾に戻って絶賛夏期講習中である。

屋外はむわぁっとした暑さに絡みつくような湿気。

屋内は「涼しい」を通り越して「冷たい」と判断してしまうエアコン制御下。

こんな感じで、身体の調子はちょくちょく崩れている。喉がイガイガとして、くしゃみや鼻水もちょこちょこ出る。まあ、アフリカで2か月半過ごした後の身体なので、今はあらためて「日本の環境にあわせるパッチ」を自分にあてているような。日本環境に適合すべくソフトウェアアップデートをしている感じだ。

 

さて、ここからは、ぼくの帰国の途での話をしていこうと思う。

幻のアフリカ77日目ということで、アフリカ76日目〜ケニア編②、エチオピア編15〜 - ひょんなことからアフリカへの記事を書き終わり、無事に投稿した23時前(飛行機に乗る直前)以降からの流れを追っていくことになる。

 

ぼくらの帰りの便は7月9日の23時25分にエチオピアアディスアベバを発ち、翌10日の20時過ぎには成田に到着するというものだった。

76日目の記事を書き終わったぼくは、安堵と達成感、そしてさみしさを感じながら、間もなくやってくるボーディングに向けて待っていた。

そして飛行機の搭乗がついにはじまった。すこし遅れていたみたいで、すでに23時30分ごろにはなっていたが、「まあこんなこともあるけど、もう帰るんだから」ということで気にしていなかった。そしてぼくらは、空港の9番ゲートでチケットを見せ、外に出て、飛行機行きのバスに乗り込んだ。バスが出て3,4分ほどしたところに、ぼくらの乗る飛行機があった。

これで最後か、、、そう思ったぼくは、バスから降りて思わず地面に手のひらをぺたりと付けた。まるで、引退する先発投手がマウンドに手を置いてこれまでのことに思いを馳せるかのように。そして、搭乗の直前、ぼくは友人と握手を交わした。これまでの体験に感謝し、日本にいざ帰ろうと思ったときには、ぼくも友人も握手を交わしていたのである。

時間は0時前。そろそろ10日になる。ぼくらを含め、みなが飛行機に乗り込んだようだ。あとは離陸を待つのみ。多少の疲れもあってか、ぼくは結構ウトウトきていた。浅く眠りについていた中で、飛行機がゆっくりと滑走路に向けて発進を開始した。ゆっくりと、でも確かに感じるエンジンの走る音。それを感じながら、ぼくは離陸を待った。

待った。

待った。

待った。

しかし、なかなか飛ばない。

まあ、飛行機のスケジュールもいろいろあるだろう。と思ってはいた。

時間は0時15分ほどを指していた。

「気配」というものを人間はどこから察知するのかはわからないが、ぼくはこのとき、「飛ぶ気配」を全くといっていいほど感じなかった。飛行機も進んでいる。エンジンもついている。機内にはシートベルト着用のサインがついているのにもかかわらず、である。それでもぼくは、この飛行機が「飛ぶ気配」を感じなかった。すると、飛行機はどこか逆戻りしている気がした。滑走路から、再び飛行機のもとあった場所へ。

この予想は、当たってしまう。時間は0時30分。飛行機は、もといた場所に戻り、ついには止まってしまったのだった。しかし、それでもなおぼくは結構眠かった。今起きている出来事に感情を震わせるよりも、寝たいという欲求に抗いたくなかったのだ。

 

ふと、意識の遠くで英語が聞こえた。

「この便は、、、キャンセルに、、、なりました。」

そんなアナウンスが、機内で流れていた。そしてまた眠り、数分後。目を覚ましたら、乗客がみな立ち上がり、荷物を出している。そして、降りる準備を進めている。ぼくらはもう日本に着いたのだろうか?いや、そんなはずはない。

そう、ぼくらを日本まで送る予定だった飛行機は、エンジンか何かのトラブルで、飛べなくなってしまったのだった。ここらへんからは少しずつ身体も起きだし、状況の把握に力を使えるようになっていた。

 

そして、1時前。ぼくらは再び、アフリカの地を踏んだのである。

思ったよりもはやい2回目のアフリカ。それは、嬉しさも楽しさもまったくない、ただただ「帰りたい」と思うだけのアフリカだった。ぼくらは再びバスに乗り、まったくウキウキしない到着ロビーに向かった。そしてロビーに着いたところで、受付は大混雑。どうやら、対処策としてエチオピア航空がホテルを乗客全員にあてがっている様子だった。ぼくの乗る飛行機は、日本に着く前に韓国のインチョンに一度立ち寄る。たぶん、給油とかの関係上だ。インチョンに行く予定の人も乗っていて、彼らは別の飛行機があったらしく、そのまま新たな飛行機へと向かっていった。成田に行こうとしている30人ほどの乗客のみが、この真夜中の空港に残されることとなったのだ。

受付の行列を待ちつつ、ぼくらは後ろのほうでリュックを枕に寝転がったりしていた。

しばらくすると、列が空いてきた。ぼくらも並ぶことにして、受付の社員の対応を待った。

ぼくらの隣には、(あとからわかったが)数人の男性がおなじようにいた。どうやら、ホテルはひとりひとりではなく、適当にグループとして考えて、まとめて取っているらしい。

突如として、ここ、エチオピアで、突然の6人組パーティが結成された。

ひょんなことからアフリカに来た日本人、アフリカに何度も行ったことのあるぼくの友人である日本人、松戸市で働いていたマリ人ビジネスマン、沖縄で勤務していたアメリカ人海軍兵士、フィリピン人男性旅行者、日本語を少し話せる日系ブラジル人?日本人?かもしれないおじいさんの6人。なんか、あんまりわからないがなんとなく「アベンジャーズ」っぽさが出ていてちょっと友人と興奮していた。少なくとも、昨今の映画のポリコレフィルターには引っかからないだろう。アジアもアフリカも入った、スーパーミックスドパーティである。(笑)

 

まずはトランジット入国をすべく、手続エリアへ。ちなみに、本来なら入国に50ドルほどかかるのだが、今回に関してはタダだった。

しかし、ここで第1の敵が出現。

ビザのハンコ押してくれないおばさんである。

おばさんいわく、「あなたたちの航空券はすでに過去のものじゃないの」ということで、押してくれない。まあ、単純に、言いがかりである。事情も分かっているのだろうが、あえてキレているんだろう。ぼくらも引き下がり、今度はエチオピア航空のスタッフを連れた状態で再戦。そうしたら通った。まあ、これだけ見ればそこまで多くの出来事が起きているわけでもなさそうだが、時間は夜中の3時。アベンジャーズでまとまっていたから笑い話にできたものの、身体はかなり疲れていた。

そこを抜けたあとは、もらったホテルのバウチャーをもとに、シャトルバスの乗り場へ。

ここで第2の敵が出現。

予期せぬ大雨アンド雷である。南半球は7月は一応、冬である。夜中の大雨ともなると、結構寒いのだ。これがばっちり、空港内からバス乗り場に行くまでのあいだの時間に降っていた。雨がやむまで待つなんてしたくもなかったので、仕方なく雨の中をバス乗り場まで歩くことに。

そして、大雨の中、ホテルのシャトルバスに乗り込んだ。

まずはぼくらアベンジャーズが乗り込み、しばらくすると他のアベンジャーズらしきグループも乗ってきた。結局15人くらい乗り、シャトルバスであるトヨタハイエースは人でいっぱいになった。ただ、人というのがみな観光客というのは、珍しかったのではないだろうか。

 

そして、ようやくホテルに向けて出発。

この時点で時間は5時前。雨のおかげで真っ暗だが、好天ならば少しずつ日が見え出してもおかしくなかった。

 

ホテルに着いた。

時間は5時過ぎ。受付で記名などの手続きをすませて、部屋に行く手筈がととのった。

と、ホテルのスタッフのにいちゃんが「朝食もつくから」と言っていたので、「何時ごろから?」と聞いたら「6時だ」と答えた。

時間は5時30分あたりを指している。思わずぼくは「あと30分後か(笑)」と笑い、まわりも同じように失笑していた。もう、着いた時には朝だったのだ。

 

そんなこんなで、ぼくは再びエチオピアアディスアベバに戻ることとなった。

なんとも言い難い、不思議な感覚に包まれた気持ちでぼくはシャワーをざっと浴び、(明日こそは飛行機は飛んでくれるだろうか)と思いながら、旅行中だったら絶対に行かないようなまあまあ値段の張りそうなホテル(2~30ドルくらい)のベッドに頭からダイブした。

 

~次回へ続く~

アフリカ76日目〜ケニア編②、エチオピア編15〜

さあ、アフリカ最終日だ。

 

今日は夜中1時過ぎくらいから朝4時くらいまで寝て、そこからごろごろと横になりつつ起きて、朝7時の飛行機を待った。すこしの肌寒さと、さみしさが身体を覆う。

 

7時になり、乗りこんだ飛行機では映画を見た。いや、厳密には見ながらも、寝た。

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乗った飛行機。まぶしくてちゃんと撮られたかわからなかったが、思いきりシルエットになっている。


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CARGO(貨物)と書かれた飛行機。窓がないところからも、貨物機なのだろう。ものめずらしくて取ってしまった。ほかにも、滑走路にていざ飛ばんとする離陸直前の飛行機を見たり、ちょっとテンションが上がった。

しかしそれもつかの間、飛行機に乗りこんだあとは、うとうとしはじめ、起きたときには朝ごはんが届き、そのあとは寝ぼけた状態であっという間にアディスアベバまで着いてしまったという感じだ。ナイロビからアディスアベバまでは2時間ほど。これまたかなりはやい。

アディスアベバの空港に着いたのは朝9時ごろ。今日はここから23時まで待機だ。個人的にはもう空港から出なくてもよかったので、そのまま搭乗ロビーの前のところ(お土産屋などがある待合スペース)で待てないか聞いてみた。そうしたら、オッケーだった。そのまま入国などのめんどうな手続きはせず、ただトランジットのために14時間も待ってもオッケーになったのだ。ありがたい。f:id:daikikono:20190710033302j:image

しかも、待ち時間がめちゃくちゃ長いから、という理由でラウンジでの昼めし無料券をくれたのだ。おかげさまでカレーみたいなやつとヤギ肉と米を大量に食えた。おまけにそのまま昼寝もかましてしまった。座って寝たのでしばらく痺れた。
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こんなところ。プレハブっぽい感じがするが中はちゃんとしたところ。

 

そうこうしているうちに、なんと時間は15時過ぎ。実は最初のエチオピア旅行の際、エチオピア通貨のブルを死ぬほどおろしていて、めちゃくちゃ余っていたのでどうにかして使いたかったので、あえてデザートを食べたりしてお金を使っていたのだが、なんとこのエチオピアアディスアベバにあるボレ空港、デューティーフリーショップでは自国通貨のブルが使えないのである。これには驚きだ。USドルしか受け付けていないらしい。ここをどこだと思っているのだろうか。

その結果、あまり使えないまま時間は過ぎていく。

 

と、ここで驚きの情報が。

各便のスケジュールを映す掲示板によると、ぼくらの帰る便は予定より70分はやまって、22時15分に出発すると書いてあるではないか。これはいかん。なぜなら、ぼくの友人はまだキリマンジャロにいて、アディスアベバに着くのが20時40分頃だったからだ。間に合わないわけではないが、ギリギリである。しかもなぜかメッセンジャーが使えず、連絡も取られない。仮に彼が着いたとしても、探すのに手間取っていたら時間がなくなる。余計に焦るが、正直今までもなんとかなってきたので、それ以上は焦らなかった。

 

時間は20時30分。

何を買おうか決めあぐねていたところで、そろそろ友人も着いただろうか、と思ったので探そうと思い、その前に売店に入ったら、友人がいた。

おお〜なんという偶然。探す手間もなにもかも省けた。最短効率で友人を発見できた。

しかも、あらためて掲示板を見たらぼくらの便の出発時間は23時15分になっていた。ほぼ以前の定刻どおりになっていた。まあ、焦るよりかは何倍もマシだ。先に荷物検査も済ませ、今は22時前だがすでに搭乗ゲート前で待っている状態だ。

 

ただ、てっきり22時過ぎには出発すると思いこんでいたぼくは、お金を使わないともったいないと思ったので大急ぎで買った結果、残った50ドル近い金額を全てエチオピアコーヒーの粉末に使った。そのため、ぼくは今、コーヒーの粉を1.75キロ持っている。500グラムが3袋と、250グラムが1袋。3種類の粉を持っている。

どこかに持っていこうと思う。

 

そんな感じで、エチオピアのお金も使い果たし、あとはマジで「飛行機に乗るだけ」になった。

飛行機に乗れば、次行動するときの場所は日本である。

とにかく、無事に、なにも取られることなく、実害行為も受けず、無事に帰れそうである。よかった。

 

 

今回の旅行でわかったことがある。

「ぼくはまたこういう長旅をしたいかもしれない」

ということだ。

どこかビッグな観光地(キリマンジャロのように目的も費用もでかいところ)には直接的に行かず、以前の記事にも書いたが、街にしばらく滞在して、そこで気の移ろいとともに移動をして、ローカルに溶けこんでいくイメージをもって過ごしていく。そんな感じで再び日本を出るときが来るかもしれない。と思った。

今まで、ぼくはこんな長く日本を離れて旅行をすることがなかった。今回の体験によって、長旅にすこし免疫がついた。いきなり1年とか行くのは日本恋しいネタを通り越して、ホームシックの原因になりうるが、また2ヶ月や3ヶ月くらいの旅はしてみたい。

そう考えている自分にも、嫌気がさすことはない。むしろ「旅できるのか、おれ!」という感じである。

きっと、ほかの旅行者と比べればアクティブさには欠けると思う。観光地にはあまり行こうと思わないし、同じところに行くのを好み、アフリカ特有のミニバスも好きではない。ただ、余裕を持って外の雰囲気を感じられればよいのだ。

 

自分自身の理解が深まったうえで、アフリカはおもしろいところだということがわかった。

そして、普通である。

正しい言い方かわからないが、アフリカに行くことは、別にヨーロッパへ行くことや東南アジアに行くことと変わらない。

きっとみなさんが想像するアフリカは、それはそれでちゃんと存在している。汚いところは汚いし、危ないところは危ない。原始的なところは原始的である。

では、外国人が想像する日本はどうだろう。

どこにでもゲイシャはいるのだろうか。サムライなんて今はいない。安全な国だと言われても、結構事件は起きている。どこでも綺麗なわけではない。都心は汚い。トイレもくさい。みんな優しくて礼儀正しいかと聞かれたら、日本社会には薄く伸ばし広げられたストレスが蔓延しているような気がする。自発的な優しさや礼儀正しさは、日本にどれほどあるだろうか。

結局、ぼくらもアフリカのことを、そして彼ら(他国の旅行客も含め)も日本のことを、イメージ先行で話している。これを覆すには勉強をするか実地に行ってじっくりと観察するしかないので、イメージ先行はある程度は仕方ないことだが、これを乗り越えることこそが異文化理解の発端ではないかとも感じた。

今回、アフリカを実際に旅することができて、経験則的な話をすることがひとまずできるようになった。今度は、日本でいろいろと「比較」するタイミングである。

 

最終日ももう終わりに近い。

そろそろ23時だ。最後のボーディングまでまもなくである。

 

この旅行はぼくの何になるだろうか。

わからないが、今わかっておく必要もないので、来るべきときに何かになればそれでよい。別に、何にならなくてもよい。

確かにこの自分の脚でアフリカの地を踏みしめたことは、しっかりと心に刻まれている。

 

あぁ〜2ヶ月半楽しかった。充実していた。

 

これから帰国します。

アフリカ75日目〜タンザニア編14、ケニア編①〜

ついに帰国開始日となった。

開始日と書くのは、今日から帰国のために飛行機に乗りはじめ、10日の20時過ぎまで飛行機移動の時間が断続的に続くからだ。

今日は15時ごろからキリマンジャロ→ナイロビはケニアへ。ナイロビまでは1時間ほどのフライトなので、16時ごろには着くが、そこから翌朝(9日)の7時まで待機。

そして、翌朝(9日)の7時に今度はナイロビからエチオピアアディスアベバへ。これも2時間ほどのフライトなので、翌朝9時にはぼくはアディスアベバにいる。

そこまで行けば、ついに日本に帰るための飛行機に乗る空港に着くのだが、飛行機の時間はあすの23時。つまり、あすも9時から23時まではエチオピアで過ごすことになるわけである。もしも空港からフリーで出られれば、かなりよいのだが、そうでなければ空港でずっと待ちである。まあ、しょうがない。

そして翌日の夜23時25分、ついにぼくの足はアフリカの地から離れ、日本に向かって飛んで行くことになる。

あぁ、あっという間だ。そして、なんかあっけない。

ぼくはゲームの中の存在ではないから、終わりが近づいたからといって音楽が劇的に鳴り響いたり、演出が派手になって終わりを想起させるようなストーリー展開になったりはしない。ぼくは人生を歩んでいるだけである。だからこそ、時間は無表情に過ぎていく。ぼくにとっては区切りでも、時間に区切りはない。ずっと流れていく。それでももうここまで来てしまったのは、にわかには信じられない。

 


今日は朝からちょっと動いた。

まずは、昨日行けなかった本屋へ行って、お求めの本を探す。2週間くらい前に行った時に見つけたものだったのであるか心配だったが、1冊だけあったので即買い。ちなみに、アフリカの近代史(19〜21世紀)について書かれた教科書的な本だ。そのあとはミルクシェイクを買い、小腹が空いたのでムシカキを購入。

そのあとは、昨日来た毛利がキリマンジャロ登山をしたいとのことだったので、ぼくも使ったマタタツアーを紹介。そこで無事に毛利も申込を完了。

また、もう使わない高山病薬をせっかくだからということで毛利にあげたところ、喜んでくれた。これで毛利も高山病にはかからないはずだ。

 

昼になり、出発も近づいてきた。

台湾人も今日出発らしく、モシからほど近いアルーシャという街に行くらしい。サファリとかにいく人はこのアルーシャに大体いく。台湾人もそのひとりだった。アルーシャまでは70キロほどで、ダラダラ(ミニバス)でいけるので、どうせだしということでぼくもついていって昼飯を食べることにした。

で、最後に食べたのがこれ。

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牛肉と芋みたいな味と食感のバナナ(たぶん)。これがアフリカ最後の晩餐ならぬ昼餐となった。うまかった。

時間も時間なので、食べたあとはさっと別れを告げ、ぼくも戻ることに。

最後に、ぼくの泊まっているホテルの隣のビルにあった日本企業のオフィスにいた日本人にあいさつに行こうと思ったが、いらっしゃらず、現地の方のみがいた。しかしぼくがあいさつに来たことを伝えると、それを察してなんと彼に電話をかけてくれたのだ。最後に、ひとことだけだがはじめてモシで会った日本人にお礼を言って去ることができた。

 

そこでタイムアップ。

いよいよモシを出発だ。

登山で使ったツアー会社のドライバーを呼び、送ってもらうことに。どうせなので、タンザニアに着いた時に送ってもらった人と同じ人にした。で、道すがら眠りこけてしまい、気づけばキリマンジャロ空港に到着。

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持っていたタンザニアシリングは支払いとおっちゃんへのチップに消えていった。


ついにキリマンジャロ空港に着いた。

チェックインも済ませ、あとはナイロビに向けて飛行機に乗るだけである。

この時点で14時過ぎ。搭乗を待つ。

 

 

15時30分を過ぎた。

搭乗である。

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ついにタンザニアを離れ、ケニア、そしてエチオピアへ。


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キリマンジャロからナイロビまでは1時間ほどの短いフライト。

しかし、窓からはキリマンジャロの頂が存在感豊かにそびえ立っていた。

「ああ、あれに登ったんだな」

じわりと実感がわく。どこか行きの飛行機から見たのとは違う感じがして見えたが、ただそんな感じがしただけで、キリマンジャロは変わらずキリマンジャロである。雲海を突き抜け、キリマンジャロ以外になにも物質がない世界を見たことが、ぼくの中でキリマンジャロの標高の高さを際立たせ、それと同時に、数日前、あの頂上にいたことを思ったことで、すこしの優越感を覚えたのかもしれない。それでちょっと違って見えたのかもしれない。まあ、「自分のもののように感じた」というふしがあるのだろう。

 

何はともあれ、そんなことを考えていたらもうあっという間に着陸。

ケニアのジョモ・ケニヤッタ空港に到着したのは16時過ぎ。

ここから14時間ほど待ち、翌朝7時のエチオピア行きの飛行機に備える。

 

テレビではアフリカネイションズカップの再放送および生放送がやっている。みな結構集中して見ている。というか普通におもしろい。

 

あまりすることもないので、ここでしばしの休憩と睡眠を取ることにした。