アフリカ68日目〜タンザニア編12〜
今日はビッグな日になった。
何かが起きたか、というと、実はそうではない。
では、何があったのか。
2つある。
1つ目は「今日で7月になっ(てしまっ)た」ということ。
2つ目は「明日からキリマンジャロに登る」こと。
もう、いまぼくの周りで起きていること全てが非現実的なものすぎて、明日(なんなら半日後)にはキリマンジャロに登るということに気持ちが追いつかないほど、心中カオスな状況に陥っているのである。
まず、7月。
ぼくは先先々月にアフリカに来たのだ。これはことばや文字にする以上に遠い遠い遠い遠い昔のようだ。それがしかも先先々月のアフリカとなればもうとてつもなくはるか遠くだ。
しかし、記憶がある。ぼくは先先々月からアフリカにいたのだ。だから、記憶にリアリティがある。でもとても遠くにある。夢を見ているような気分になるのだ。まるで自分の空想だったかのような錯覚に陥る。でも、現実だ。
ぼくはたしかにエチオピアで下痢に苦しんだ。ぼくはたしかにソマリランドのハルゲイサからジブチ国境に行くまでの約16時間のデコボコ道を移動した。ぼくはたしかにジブチでラマダンによる街の静けさとうだるような暑さを感じた。ぼくはたしかにマラウイのマラウイ湖畔で素晴らしい月と太陽の光を見た。ぼくはたしかにモザンビークで40時間のバスに乗って2000km以上移動した。ぼくはたしかにエスワティニで国境からの本当に美しい田園地帯を一望した。ぼくはたしかに南アフリカで大都市と大自然を目の当たりにした。そして、いま、ぼくはたしかにタンザニアにいて、明日からキリマンジャロに向かおうとしている。本当に。
7月であることがこんなにもぼくの心を非日常的にするなんて。
それくらい、今年の7月は去年からのぼくにとって「非現実的な月」だったのだ。とっても遠い存在だった。この7月を迎えるまでに、とてつもなく大きな経験をする必要があったから。ともすれば壁とも試練ともなりうる出来事が、7月の前にいくつも立ちはだかっていたから。
しかし、いま7月を迎えた。
別にただ時間が過ぎるのを待つのみだし、黙っていても7月はどうやってもやってくる。
でも、今年の7月だけはどうしても違ったのだ。ただ7月を迎えるだけなのにこの達成感のようなむなしさのような、RPGの終盤のような儚さを感じるのは。なぜだろうか。
ぼくにとって今年の「4月」「5月」「6月」「7月」は、単に時間軸をあらわすことばではなく、旅の進み具合に直結することばであり、「7月」を言うことすなわち旅の「終焉」を迎える意味合いを持っていたのである。
そして、今日1ヶ月以上ぶりに友人に合流したことも、ぼくにとって「時がたしかに経った」ことをあらわす証左である。ヨハネスブルグで別れたのが5月の話。言ってしまえば先々月の話になる。なんという時間の経ち具合だろう。
そして、この状況のなかで「明日から」キリマンジャロに登るということが全く現実味を帯びていないのである。
あいにく、残っている支払いの手続きをとろうとしたところ、カードが使えなかった。カードの認証がどうやら国内の銀行で必要だったみたいで、それをやっていなかったっぽく、結局、明日の朝に銀行で現金を引き出してそれをツアー会社のプリペイドカードに入れて、それで支払いを行う予定だ。このギリギリまで確定したといえない状況も、よりキリマンジャロに対する気持ちの入らなさを助長している。
装備も整えたし、友人とも合流した。時も来た。支払いも明日の朝に終わらせる。それをやったら、すぐに登山開始なのだ。あぁ、信じられない。
本当に信じられない。
予定通りにいけば、ぼくは4日後(ほぼ3日後)、キリマンジャロ頂上にいるのだ。アフリカの最高峰にいる。なまじ信じられる話ではない。しかし、着実に近づいている。
ツアー会社には、過去の使用者のノートブックが遺されている。20年前のノートもあり、そこにも日本人による文章がずらりと並んでいた。彼ら彼女らの筆跡を追うたびに、そして写真を眺めるたびに、気持ちに身が入るが、しかし同時に非現実的な感覚も強くなった。次はぼくがやるのか。これから登るのか。
今はもう22時前だ。そろそろ寝ようかと思う時間だ。
今もまだキリマンジャロに実感を抱けてはいない。まだ支払いというプロセスがクリアできていないから、それをクリアしないと登られないというのもあるのだろう。しかしそれが終わると同時に、登山がすぐにはじまる。
あぁ、気持ちの整理が、、、という時間がないのだ。
キリマンジャロがぼくにとっての「何」になるのかはわからないが、「何か」にはなるだろう。
もう高山病薬のダイアモックスも買った。ちなみにタンザニアなら250円くらいで買える。日本なら10倍以上の値段になるだろう。
よく、メダリストや優勝者が「まだ実感がない」という。
キリマンジャロは登頂していないが、7月を迎えた、という点で言えばぼくは「まだ実感がない」。これは、あまりにも強く「7月」を迎えることを意識した結果だからなのかもしれない。優勝者やメダリストは、優勝することやメダルを取ること強く強く意識する。ぼくの7月なんかとは比にならないくらい、人生を賭けて意識する。その願いが果たされた時、今までに蓄積していたとてつもないパワーをぶつけていた対象が突然消えたかのように、そのパワーが肩透かしをくらったかたちになる。
それでむしろ戸惑ってしまうのだ。
「え、7月、本当に来ちゃったの?」と。
つまるところ、ぼくは強く「7月」を迎えたい意識を持っていたと同時に、「7月」を迎えることを望んでいなかった、あるいは、本当は「7月」なんて来ることがないと思っていたふしがあったのかもしれない。(もちろんb時間が経つのは必然なので、絶対に来るのだが)
本当のところはわからないが、もしかしたら、彼らもあまりに強く「優勝」や「メダル」を意識しすぎていざそれ得た時に、嬉しさよりも「なんで本当に来たんだ?」という戸惑いや疑いが生じるのかもしれない。
となれば、明日になればこのぼくの実感のなさは少しまぎれるだろうか。
いやいや、明日からキリマンジャロに登るのである。
さらに非・現実味が増してしまうではないか!
もう、とにもかくにもぼくは寝ようと思う。
もはや今の感情は、これまでの人生の経験におけるなにものにも当てはまらない、「はじめて」の感情だ。
25年生きてきた今、まったくはじめて感じる気持ちの真っ只中にいる。
なんということだろう!
これまで生きてきた経験から物語れない、全く形容できない感情のすばらしさたるや!
ただわかるのは、、、
この感情は、ぼくにとって価値のあるものだ。
明日からしばらくブログの更新は止まります。
キリマンジャロから帰ってきた日に、更新を再開します。