ひょんなことからアフリカへ

ひょんなことからアフリカへ行くことになった男がアフリカから日本に帰ってくるまでの日々を描いた日記。

アフリカまであと2日~生き方を考えるのは人間だけなのだろうか~

またまた1日遅れになってしまった。

厳密に言えば、もう明日なわけだ。いよいよだ…。

 

今日は、3年ぶりとなる友人に会ってきた。

新卒で入った会社の、研修で同じグループになった人である。

よくぞ会えたなぁと思うが、不思議と話は弾んだ。アフリカに関係なしに。

大阪まできたかいがあった。そんな気がしている。

もちろん、実家があり、今は祖母しか住んでいないからそこに行って話をするというのも大きな目標としてあった。

 

なんだか今生の別れを告げにあちこちを飛び回っているような出しゃばり人間のように聞こえなくもないが、実際そうでもある。別に生死をさまよいにアフリカに行くわけでもなんでもなく、ただ3か月旅行に行くだけだ。アフリカ、というのも、日本と比べれば環境や文化が異なるだけで、全くの未開の地に足を踏み入れに行くマゼランやコロンブスとはわけがちがう。今は2019年だ。来月からは令和に元号が変わる。

でも、別れというのはなんだかさみしくもあり、不思議と新鮮な気持ちにもなる。

べつにぼくは彼らと喧嘩して別れるわけではない。しばらく日本から出るから、名残惜しくも関係性をいちど切る。会えない、という状態をお互いに認識しているから、いちど「さよなら」という。もういちど復元することをわかったうえで、いちど切る。

安全であることをわかったうえで、ジェットコースターやバンジージャンプに挑むようなものだ。人間は安全下の危険を好む。これももしかしたら、そのひとつといっていいのかもしれない。

 

つのる思いを書き始めてから、途中に間隔はたくさん空いたが、半年ほど経った。

気付けばもう2日に迫った。厳密には明日である。

現実感は徐々にやってこない。いつも、一瞬でやってくる。遠くから近づいてくるわけではない。下からにゅっと現れる。死角から飛び出してくる。ぼくはまだ現実感をおぼえてはいない。「願っても考えてもいなかったアフリカに3か月行く」という、少し浮世離れしたものだからだろうか。

いずれにせよ、今日か明日でそれは一気に来るはずだ。構えておこう。どうせ何にもならないが。

 

今日会った友人はぼくと同い年だから、社会人4年目。

ぼくも一応、社会人4年目の代になるのだ。

新卒から会社に入ってしっかりと勤め、人生を築いていく人がいれば、それとは全く違う生き方をする人もいる。どれに良い悪いという評価をすることは出来ないことをこの数年で知ることが出来た。

誰しも、その人の生き方があり、ぼくには、ぼくの生き方がある。

人には人の乳酸菌があるくらいなのだから。

しかしまあ、生き方を詮索できるのは人間くらいな気もするがどうなんだろうか。

ゴリラやシカ、マングースやモンシロチョウも自分の生き方を模索することがあるのだろうか。はたまたアブラナミカヅキモ、大腸菌などもそんなことを考えることがあるのだろうか。それは彼らに聞いてみないとわからないが、聞き方はいまのところ解明されていない。

少なくともヒトは自分の生き方を考えることが出来る。マズローが提唱したうちの”自己実現欲求”にあたるのだろうか。

 

みんながこうやって生きているから、ぼくはこうしよう、という考え方がまだぼくの中にはある。みんなが普通に社会人をやっているから、ぼくは”あえて”そうではない人生を歩んでみよう、という感じで。前にも書いたかもしれないが、あまのじゃくであることが一定の価値を生み出す気はしている。みんな左を向いているなら、右を向けば何かあるかもしれない。

ただ、これって、”本当に自分が選びたかった”道なのだろうか。みんなに注目してもらえるから選んでいるのではないか。それって、自分の意志というより、人によく見られたいがための考えに基づいた選択なのではないだろうか。そう思うことがある。

その方が人間らしい、と思う人もいるかもしれない。だったら辞めずにそのまま働いておけばよかった、と思うこともある。きれいごとばかり並べて、辞めたのは結局いやだったからだろう。その通りである。ぼくにはきっと仕事があわない。今後もずっとあわない。だからきっと、アフリカに行くことになったのだ。

 

「こうなる運命だった」というのは、昔なら好んで言っていたが、今はあまり言わなくなった。なぜなら、ぼくはアフリカに行くことなど露ほどにも望んではいなかったからだ。偶然が、本当にさらなる偶然を創りだした。

 

人生を、もっと動かしたい。

 

※最近、こればかり聞いて電車内でうるうるとしている。

やっぱり「オトナ帝国の逆襲」が一番泣ける映画だわ…。

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